柑橘の起源と進化
日本で柑橘類と称して栽培されている植物は、分類上は柑橘属、キンカン属、カラタチ属であり、
この3属はアジア大陸東南部やその周辺の島々に分布している。ところが、オーストラリアには
近縁のミクロシトラス属やエレモシトラス属植物は分布するが、上記3属の植物が全く
発見されていない。
オーストラリア大陸がアジア大陸から切り離されたのは、ほぼ3,000万年前と言われているため、
柑橘類が誕生したのは、2,000~3,000万年前くらい昔のことと推定される。3,000万年前は、
地質時代の第3紀中期にあたる。被子植物は、7,000~8,000万年前の白亜紀中ごろから現れ始め、
第三紀には近代植物の大半が出そろっている。第三紀の初期から中期にかけて、現在の
熱帯性植物群が出現しているから、この柑橘類発生年代の推定は、ほぼ的を得たものと思われる。
柑橘が産声をあげた地は、インドのアッサムを中心とする地域であったと考えられている。
アッサムを貫流し、ガンジズ川に注ぐプラマプトラ川流域からヒマラヤ山麓にかけては、今も柑橘の
多くの種の原形が野生している。
熱帯樹林であったアッサムの地に現れた柑橘は、先祖植物(Citropsisシトロプシス属等)との中で
混交を続け、やがて、気象的、地理的あるいは生態的な隔たりができ、交雑関係を打ち切り、
独立した現在の柑橘の先祖である新植物となって進化の道を歩むようになった。
こうした柑橘の先祖である新植物(原始形)は、現在では野生種として取り扱いされている
パペダ類のラティペス(Citrus latipes)やユズ近縁のイーチャンジェンシス、あるいはこれらに似た
植物であったように思われる。3,000万年の大半を原始形のままで過ごしてきた。
清見が育成されてからの柑橘類の進化のスピードに比較すると、本題である進化のスピードは
緩慢ではあったであろうが、現在の品種構成を形成する大きな進化であったと考えられる。
原生地アッサムの東南部ではライムが発生し、西ではシトロン、リモニア、レモンが誕生した。
南部からは、ブンタン、ダイダイ、スイートオレンジが現れた。
一方、ミカンの先祖とされるインド野生ミカン(Citrus indica)が現れ、これからミカン類が
発生した。また、ヒマラヤを越えたチベットではイーチャンジェンシスやユズが発生した。
こうして、原生地及びその周辺で種を増やした柑橘類は、風、水、鳥や獣が伝播し、
人類が現れてからは伝播のスピードは画期的に加速され、次第にその領域は広げられた。
南はインドシナ、マレーシアを経て東インド諸島に広がり、東は中国から日本列島に分布した。
西は、砂漠を越えて中近東に進み、さらに地中海沿岸に到達したのである。
温州ミカンの起源と進化については、前文で示したようにアッサムをその起源とし、
長い年月の進化の過程においてミカン類として進化した後、中国に伝わったとされ、
日本でのミカン発生も中国からの導入が最初とされている。
どのように日本に来たかは定かではなく、中国からの潮流に乗って種子が伝播されたか、
人為的に船に乗って導入されたかも定かではない。
しかしながら、日本の柑橘品種の権威とされる田中長三郎博士が、シーボルトの記述、神田玄泉の
著書から鹿児島県の長島が発生地であることを考証し、その後、長島町鷹ノ巣で樹齢300年の
最古木が発見されたことから、長島発生説が一般的となった。
しかしながら、この古木は接木樹であることから最古木とは言えず、原木は他にあるものと
考えられている。
中国から船出して潮の流れに乗ると長島付近に漂着することからも、長島付近の400~500年前の
歴史が日本の温州ミカンの幕開けであると考えられている。
田中博士は、「温州ミカンは中国黄岩県から天台宗の層が長島にもたらしたソウ橘、マン橘からの
偶発実生と思われる」とも述べられています。
温州ミカンが長島付近で発祥して後、栽培としての形態を取り始めたのは、我が福岡県であり、
この田主丸の地で増殖されたのが最初と言われ、地元には殖木諏訪神社(ふえき)に
その記述が残っている。
この時代のミカンは在来系であり、これが日本の西南暖地に広がり、愛媛では平系、大阪では
池田系を生み、西日本に広がった。在来系からは、青江温州や宮川温州の初期系統を生むに至った。
一方、長崎に伝わったものは伊木力系となり、その後、尾張の苗木地帯に伝わり、尾張系となった。
こうした温州ミカン産業の礎が築かれた時代は江戸時代であり、種なしである温州ミカンは
お家制度の徳川時代には武家に忌み嫌われ、種子のあるキンカン等が重宝がられた。
本格的な栽培が始まるのは明治維新以後であり、この150年の間に突然変異探索や人為的な
変異育成により多くの品種、系統が生み出された。
伊木力系、尾張系や早生系に系統分化した温州ミカンは明治時代に入ると様々なルートで
西南暖地に広がり、栽培面積の拡大とともに多くの品種や系統を派生してきた。
こうした中、大正初期に福岡県の宮川謙吉氏の宅地内で在来系温州から枝変わりとして発生した
宮川早生は、大正14年に田中長三郎博士によって発表された。本品種は以後多くの突然変異を生み、
交雑親としても清見を生じ、珠心胚実生として興津早生が育成されるなど、日本柑橘産業に大きな
貢献を果たすことになる。
大正から昭和にかけては、愛媛県で南柑4号や南柑20号が系統選抜されるなど、宮川早生や
南柑20号の発表は、全国で多くの系統が選抜される礎になったようである。
しかしながら、第二次世界大戦の勃発とともに園地は荒廃し、昭和30年ころまでは、品種系統の
派生においても暗黒の時代となった。
戦後は、高度経済成長とともに飛躍的に増産され、昭和50年前後に350万tを超え価格暴落する
まで拡大し、以後は国家的な需給調整策が講じられ、オレンジの輸入自由化等もあり、生産量は
15年で最大時の半量まで縮少した。
ただし、こうした中でも温州ミカンの生き残りをかけて、昭和50年代から極早生温州の探索が
実施され、宮本、山川、上野、日南等多くの極早生品種が世に排出された。しかしながら、
今となっては極早生温州が、温州ミカンの評価を下げることとなっており、10年ほど前から
極早生温州は減じる基調となっている。
平成になると200万tを割り、飽食の時代が到来し、食文化や消費の多様化に伴い、量から質への
転換が迫られるとともに高品質果実生産に向けた技術(マルチ栽培やマルドリ栽培)や高品質である
新たな品種(石地、川田等)が求められるようになった。